1914年(大正3年)に建設され、ピアソン夫妻が15年間生活した洋館を1970年に修復し、ピアソン記念館として1971年5月開館。
 建築当時は、三本の柏の木に囲まれ、夕焼けが美しく木漏れ日が部屋いっぱいにあふれていたようです。今はそのうちの北西側の一本だけが残っています。
 町並みを一望できる高台にあるスイスの山小屋風の西洋館はピアソン婦人の望みだったそうです。
ピアソン夫妻はキリスト教の伝道や学校教育等の振興に尽くしました。
 建物を設計したのは、W.M.VORISE氏で、キリスト教の伝道と建築技師として有名です。

◆ピアソン記念館/住所:北見市幸町7丁目4番28号 TEL:0157−23−2546

◆開館時間/午前10時〜午後4時

◆休館日/毎週月曜日・祝日の翌日(月曜日にあたるときは翌日も休館)
     年末年始(12月30日〜1月6日)

◆入館料/無料

◆交通/JR北見駅から徒歩15分

ピアソン記念館の建設経過について

 ピアソン記念館は、北見の創成期の精神文化などに、大きな役割を果たしたピアソン宣教師の伝導の拠点であった私邸を、昭和45年に記念館として復元したものです。
 このピアソン邸は、大正3年(1914年)に、山小屋風の西洋館として建設されましたが、ごく最近までは、ピアソン宣教師自身が設計・監督して建設されたものと考えられておりました。しかし、平成7年(1995年)に、大阪芸術大学教授の山形正昭氏(当時助教授)の研究で、日本の建築史の中では有名なウイリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計であることが判明し、さらに設計図の原本も発見されました。
ヴォーリズは全国で1,600の作品を生涯で残しておりますが、ヴォーリズの作品の中で日本の一番北の地に、それもごく初期の作品が存在しているなどとは、予想もしなかった事のようです。

ピアソン邸(記念館)の変遷

1913年(大正2年) ピアソン宣教師により建設地を現在地に決定
1914年(大正3年)  同年5月以降ウイリアム・メレル・ヴォーリズ設計により現地棟梁により完成する。
 この間ピアソン夫妻が居住する。(15年間)
1928年(昭和3年) 5月ピアソン夫妻アメリカへ帰国。以来神原信一氏が居住(約8年)
1935年(昭和10年) ツルーメン宣教師が居住する。
1939年(昭和14年) 唐笠学(何蝶)医師が居住(約8年)
1952年(昭和27年) 10月から北見児童相談所が使用する。
1963年(昭和38年) 12月よりYMCAその他が使用する。
1968年(昭和43年) 北見市が北海道より、文化財として保存する事を条件に建物及び用地の払い下げを受け、取得する。
1969年(昭和44年) 12月に北見市教育委員会が文化財として復元保存を決定。
1970年(昭和45年) 9月から12月にかけ復元工事実施
1971年(昭和46年) 5月31日開館式
10月1日「ピアソン記念館条例」を制定する。
1978年(昭和53年) 9月1日同館規則制定
1984年(昭和59年) 北網圏北見文化センター設立に伴い、同所管施設として現在に至る。
1996年(平成8年) 北見市指定文化財第7号に指定。
2001年(平成13年) 北海道遺産(第一回選定分)として正式決定

ピアソン宣教師夫妻と北見

  柏の古木や楡の大木がそびえ、かるかや・ききょうの薫る高台、夕焼けが静かに野付牛の空を焦がしていた。
 50歳を越した180cm豊かなアメリカ人宣教師とその夫人が伝道活動の拠点を求め、思案しながら、この高台を散歩している時、西の山に大きな太陽が燃えながら没してゆく、その美しい光景に魅せられて、ピアソン夫妻は、この高台に住むことに即決した。
 2年がかりで、故郷エリザベス市の自然に似た美しい高台に、ピアソン夫人の好む、スイス風山小屋を思わせる家が建てられた。当時の人々はこの森の中の西洋館を大変珍しがり、夫妻の献身的な人柄を慕い、ここを訪れる人々は耐えなかった。1888年(明治21年)

 に来日、40年間の本邦生活のうち35年間は北海道を、函館・室蘭・小樽・札幌・旭川・北見へと南から北へ都会から農村へと開拓者たちの心に忍耐と勇気と夢の灯をともしながら伝道を続けた。小樽と札幌では、本道初期の女子教育に貢献し、札幌農学校の学生を教えたこともある。旭川では、軍人伝道・廃娼運動・監獄伝道・アイヌ伝道・学校教育の振興に尽くした。
  北見では、略註付旧・新約聖書出版の偉業を成し遂げ、遊廓設置阻止に成功し、多くの婦女子を救った。
 この二人は、この高台を「みかしわの森」(三本の柏の木のある森)と呼び、この高台とこの町をこよなく愛した。ここからは遠く北光社の開拓地が見え、足もとには町の灯がともった。
 ここは、開拓者と町民のための祈りの家となり、聖書を説く神の家ともなった。ピアソン夫妻が15年間住みなれたこの「みかしわの森」に涙の別れを告げ、ポプラ並木のピアソン通りを去って、故国アメリカに帰ったのは1928年(昭和3年)の春のことです。

ピアソン夫妻 年譜

1861年(文久元年) ピアソン氏、1月14日米国ニュージャージー州エリザベス、長老派牧師家庭に生まれる。時に南北戦争勃発。
1862年(文久2年) ピアソン夫人、アイダ・ゲップ、アメリカのフィラデルフィアに生まれる。 
1881年(明治14年) ニュージャージー大学卒業。中学生教師となる。
1885年(明治18年) プリンストン神学校入学。2年後卒業し、87年の夏ペンシルベニア州カンバランド、バレイ市で夏期伝道する。
1888年(明治21年) 4月16日牧師として認職される。6月21日エリザベス市の母協会ウエストミンスター長老教会にて按手礼を受け同時に宣教師として日本での伝道の任命を受け、8月21日アメリカを出帆し日本へ向かう。
1888年(明治21年) 東京芝、明治学院中学校にて教鞭をふりながら日本語を学ぶ。日本の国家主義思想の台頭により明治学院を退く。
皇室の通訳を薦められるが断る。
1890年(明治23年) 千菜の県立中学校で英語教師をするかたわら東京中会(教区)に属し田舎伝道する。この年、岩手県盛岡でも伝道を試みる。初めて北海道に渡り調査したのもこの頃。
1893年(明治26年) 函館を拠点に、室蘭・伊達両教会の伝道を助け、小樽・札幌にも伝道に行く。
1894年(明治27年) 小樽に在住し、翌年6月12日聖公会婦人宣教師アイダ・ゲップと東京にて結婚。
1898年(明治31年) 札幌に移り、夫妻で北星女学校・札幌農学校(現北大)で教師をしつつ宣教師の活動を行う。
1901年(明治34年) 旭川に居を移し、坂本直寛牧師らと協力し廃娼運動、十勝監獄伝道するかたわら十勝・釧路・北見・遠軽・名寄・天塩方面に伝道圏を拡張する。
1914年(大正3年) 前年休暇のため一年間帰国し、5月に野付牛町に移る。
1914〜1928年(大正3年〜昭和3年) 15年間野付牛町(北見市)に居住し、道東・道北の伝道にあたる。
1928年(昭和3年) 5月北見市を離れ6月に引退し、在日40年間の伝道生活を終え、夫人の故郷であるフィラデルフィア市に住み著作活動に従事し数冊の書物を出版する。
1937年(昭和12年) ピアソン夫人、フィラデルフィアにて召天、享年75歳
1939年(昭和14年) 7月31日ピアソン氏、フィラデルフィアにて召天、享年78歳。

野付牛(北見市)での業績   

 『2度の地方での伝道旅行で、ピアソン夫妻は遠軽か野付牛に居を構え、宣教師として最後の活動を実践しようとしていた。その地を野付牛と決定し、1914年(大正3年)に転居してきた。これにより伝道の拠点は野付牛を中心として実施されることとなる。

  〔日本基督教婦人矯風会野付牛支部の結成〕
 遊廓建設の反対のため、支部を結成し、会長ピアソン夫人、副会長坂野コト、書記前田静子など。この運動が実を結び、北見市には遊廓が建設されることはなかった。

 〔ピアソン寮の設置〕
 野付牛に念願の中学校が設立されたのは1922年(大正11年)であったが、地方から通う生徒には下宿代を払うことは相当の負担であった。ピアソン夫妻は、生徒が金銭の心配をしないでも勉学に励むことができるように、無料の寮を設置し、多くの人材を育成した。

  〔各種の奉仕活動〕
 ピアソン夫妻は、貧しい人々を救ういろいろな救済活動を実施したり、婦人の地位の向上など、市民の意識の向上に積極的に取り組んでいた。
 また、クリスマス祝会などを毎年開催し、大人も子どももこの祝会を大いに楽しみにし、多くの人が参加している。また、バザーなどの催しも実施されていた。

ピアソン記念館の設計者ヴォーリズについて   

 1905年(明治38年)、東海道本線の琵琶湖の東にある小さな駅「近江八幡」に、アメリカからはるばるやってきた25歳の青年、ウイリアム・メレル・ヴォーリズが降り立ちます。後に近江商人の士官学校ともいわれる県立商業学校で、英語を教える教師としての赴任でした。
 その彼は当時の日本では先進的な技術を持つ建築技師であり、キリスト教への燃えるような志を持つ伝道者でもありました。
 そしてその後84歳の生涯を終えるまで、最初の赴任地、近江八幡を去ることなく、日本人の一柳満喜子と結婚して帰化し、名も日本名に改めて、産業を興し、教育や福祉をすすめ、建築に不朽の腕を発揮し、キリスト教を伝道し、文化を高めるなど、滋賀県をはじめ全国に偉大な業績を残しています。

『建築物の品格は人間の人格の如くその外装よりもむしろその内容にある』

 ヴォーリズの建築家としての歩みは1908年(明治41年)、来日3年目の28歳からでした。京都のYMCA会館の現場監督を依頼され、建築事務所を開設しました(後のヴォーリズ建築事務所)。
 スタッフの中には建築を正規で学んだ者は少なく、ヴォーリズを慕う者の集団でしたが、アメリカからの建築家も次々参加して設計活動を推進してきました。

 『建築物の品格は、人間の人格の如く、その外装よりもむしろその内容にある』とは昭和12年に発行された「ヴォーリズ建築事務所作品集」からの冒頭からの一節ですが、これこそヴォーリズが設計に取り組む信念でした。
 例えば、室内の隅々にほこりがたまらないように、床も天井の隅にも丸みをつけ、階段の段差を低く幅をゆったりととり、手すりにも丸みをつけたり…といった具合です。
 これらはヴォーリズが建築活動をキリスト教の伝道事業として位置づけた事とも関わりがあると思われます。
 現在でも大阪心斎橋の大丸デパート、東京の山の上ホテルといった有名な建築物を始め、協会学校、病院、住宅など作品数は全国各地1,600にも及び、東南アジア各地にも優れた建築を残しています。

1995年(平成7年)に確認されたピアソン邸の設計図


画面をクリックすると拡大画面が現れます。(86KB)※設計図の注釈あり

 ピアソン氏とヴォーリズ氏は大正2年ごろ、同時にアメリカへ一時帰国しているが二人は以前からの知り合いであったようだ、その時にピアソン邸の設計を依頼したと思われる。
 この設計図どおりには建築されなかった。建築を手掛けた地元の棟梁が、西洋建築を図面とおりに建てる技術がなかったと思われる。
 1914年当時、三本の柏の木を残し、それらの木々に挟まれた狭い土地に建てられており、環境を大切にし、遠い故郷と同じような景色にしたかったピアソン氏の心が伺える。

 

 ピアソン記念館外観

ウイリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計図通りには建てられておりませんが、図面にかなり近い雰囲気をかもしだしています。
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前庭から観ると、アメリカの田舎にいるような気がする景色です。

 

 

 

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ピアソン記念館展示品

  ピアソン夫妻の写真

ピアソン記念館に展示されている夫妻の写真です。


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協会の鐘

アメリカから取り寄せた協会用の鐘です。
ピアソン氏が日本キリスト教北見教会に寄贈しました。

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オルガン

 

 

キリスト教の伝道にとって聖書に並んで大切なのが賛美歌で、伴奏にオルガンが使われる。
ピアソン氏の伝道の友になったのが、妻アイーダが所有していたオルガンです。
 奥に見える望遠鏡はピアソン氏の祖父の形見の品で、ピアソン氏が1928年アメリカに帰国の時北見に置いていきました。
「これをアイピース(接眼部)から眺めれば、いつでもアメリカにいる私たちの様子が見られ申し候。
逆さまにして(逆の方向から)のぞいてくだされば、その都度アメリカにいる私たちから、日本のみなさまを見られし候。くれぐれも時折、逆さまにしてのぞいてくださるようお願い申し上げ候。」
帰国前に、野付牛中(現北見北斗高)の初代校長の故佐藤猪之助さんに、慣れない候文を使い贈りました。
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